【コラム】原稿を「通す」には確かな知見と勇気が要る

2023.08.07

私たちは日々、小・中・高校生の学力診断テストの制作を行っています。

テストの制作には多くの工程を踏みますが、私たちが最も重要だと考えているのは「校閲」という工程です。校閲とは、原稿を吟味すること。必ず原稿執筆者とは別の者が行います。

出題範囲から外れていないか、出題するべき問題が漏れていないか、条件設定は適切か、想定外の別解が出てしまわないか、受験者を迷わせる表現になっていないか、想定通りの平均点が出るか、などなど、チェックリストを脇に置いて原稿と向き合います。つまり校閲者は原稿にジャッジを下す立場にあるのです。

当然のことながら、不備に気づかずスルーさせてしまっては校閲者失格。でも、「赤字を入れ過ぎる」校閲者も力量不足と言わざるを得ません。「どうして?」と思われる方もいるかと思いますが、実は「赤字べったり」の校閲は自己満足である場合が多々あるからです。たくさん赤字を入れると、「仕事をした」気分になります。「こんなに細かいところにまで気がつく自分」にとても満足します。でもそれは本当に「修正しなければならない指摘」なのでしょうか。赤字通りに修正したことで、かえって全体の流れがわかりづらくなってしまう「改悪」パターンもあります。そもそも本当にそこまで赤字を入れなければならない原稿であるなら、執筆者を変えるべきです。もしくは、校閲者が一から書き直せばよいのです。

元の原稿をそのまま生かすことを、私たちは原稿を「通す」と言います。原稿を通すには確かな知見が必要です。学習内容として正しいか、受験者に理解できるか、受験者の学力を適性に測れるか、不平等が生じないか、テストとして成立するか。そういった重要な観点を踏まえて「大丈夫」と判断するのです。そしてそこには勇気も必要です。テストを外部に公開したとき、些末な点にいわゆる「突っ込み」が入っても大丈夫、ちゃんと説明できると思える勇気です。

以前、ある英語の模試のリスニング放送台本の制作途中で「ここは『that』で本当によいのか?『this』とも言えるのではないか?」と突っ込みが入りました。確かに細部まで吟味、検討することは重要なことです。しかし、これは本当に吟味・検討して修正すべきポイントなのでしょうか。しかもこの場合は「thatかthisか」を答えさせる問題でもなく、「that」で確実に解答を出せる問いでした。つまり、テストという目的においては何ら問題がないことだったのです。

テストだけではなく、ビジネス文書などにおいても同じことは言えると思います。後輩に「私が書いた原稿をチェックしてください!」と言われて、ついつい自分好みに書き換えてしまいがちな方、気になる点ばかりが目についてしまう方は「通す勇気」をちょっとだけ考えてみてください。


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